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Make, Hack, Think

これまでのあらすじ

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あけましておめでとうございます。皆さん今年もよろしく。

この2年間ずーーーっとモヤモヤしていた気持ちが、最近新しい目標ができて、やっとすっきりした。ここでモヤモヤしていた2年間を振り返る。完全に自分のために書いています。

この記事は3Dプリンタで15時間掛かるプリントをしながら書いている。失敗したくないのでつきっきりで見ていたいという希望に、妻が理解を示してくれたおかげでこんなに長い記事が書ける。普段はこんな時間全然ないんだ。いつも赤ちゃんのお世話と僕の世話をしてくれて感謝しています。

それまでのあらすじ

  • 2009/4 - 2011/12 ニュージーランドの高校に通いながら、Lispの勉強とジャグリングをしていた
  • 2012/4 - 2013/8 代々木の小さなWeb制作会社株式会社パイロットでプログラマバイトをしていた
  • 2013/8 - 2014/12 アメリカはサクラメントのコミュニティーカレッジに留学しているふりをしながら、スシシェフのバイトしたりGSoCでClojure書いたりしていた。

モヤモヤ期

2015年春 東京

2014年の12月にアメリカ留学から帰国して以来、渡米前に働いていた株式会社パイロットという小さなWeb制作会社に出戻って所属している。おみやげを持って行ったら社長にくどかれて戻ることにした。社長ありがとう。

帰ってきた当初、僕は仕事に全く身が入らず、昼間は会社で居眠りをして、夜中に個人で好き勝手にコードを書くということをしていた。以前は仕事としてのソフトウェア開発の中にも、自分でライブラリを描いてそれを使うとか、好きな言語を使って書くとかそういうことで楽しみを見出してやっていたのに、それでは満足できなくなっていた。その頃に勝手に作ったのがこれ↓

ympbyc.hatenablog.com

そんな中2015年の3月、アートとIT企業誘致による町おこしで有名な徳島県神山町に研修旅行に行った。神山町への移住者の人たちは、個人で店を出したり、フリーの仕事をしている人が多かった。企業に所属している人でも、企業とか組織とかそういったものの匂いを感じさせない人が多かった、というか目について印象的だった。僕もこういう形を目指そうと思った。小さな町で誰もが誰もを知っているという雰囲気も気に入った。

2015年 夏 神山

東京に戻ってからいろいろと工作活動をして、強力な支援者の助けもあって3ヶ月後の6月には研究開発部と神山サテライトオフィスが発足して、何をやってもいいという言質とともに、僕は一人神山に潜入できた。実はその頃すでに神山に住んでいたお姉さん(今の嫁です)と交際していたので、比較的すばやく町の人たちと知り合いになれた。

東京を飛び出したのはいいものの、なにをやるかフワッとした考えしか持たずにきたのが災いして、そこからの一年間半は苦悩とスランプの期間だった。人間なんでもやっていいと言われるとなーんにも思いつかなくなるのかもな。

行く前はフワッとまずはVRのプログラミングサイドからの研究をやろうと思っていた。東京にいた頃はVRこそ未来だと思っていたんだ。ところが来てみると彼女はいるし自然はめちゃくちゃ綺麗だしVRなんか全く必要なかった。VRなんかいらないですよ皆さん。移住しましょう。

しょうがないので上記のWebアプリの動的開発環境の開発を進めようとしたものの、一向に筆が進まない。筆じゃなくて指かな。考えてみると神山に来てからWebアプリを使う機会が減っている。特にSNS。あんなにはまっていたTwitterもほとんどやめてしまった。ブログを見たりはするけど、それはただのハイパーテキストだ。自分が使わないものを作るというだけでもバカらしいのに、自分が使わないものを作るための開発環境を作るというのはもっとtwistedだ。公平を期して言えば、今でも便利に使うWebアプリはあるし、Webがいらないとは口が裂けても言えない。ただ東京にいた時よりもうんと人付き合いが増えて、前ほどWebとかコンピュータに魅力を感じなくなっていたという話。

あとは、せっかくこんなに広々として気持ちのいいところに来たのにコンピュータの画面とにらめっこしていたくないという単純な思考もあった。よく川の中の岩に座って、川に足をつけてパソコンを見てるみたいな写真があるけど、あんなことをするやつはバカだ。川は泳ぐもんだ。とにかく、画面を見つめるよりもっと人間的な活動をしたいと思うようになった。

2015年 秋 電子工作

梅雨が過ぎ夏が来て、学生が夏休みを終える頃になってもまだなにをしようか考えあぐねていた。そんなある日、夏休みといえば自由研究だなぁとぼんやり考えていた時、小学生の頃に組み立てた大人の科学の鉱石ラジオのことを思い出した。その鉱石ラジオが壊れた時、なんとか直そうと色々試してけっきょく直せなかった。大人になった今だったら自分で一から作れるかもしれないぞと思い立って、自由研究がてら作ってみた。

mechanic.pilotz.jp

ポリバリコンのダイヤルをチビチビ回して信号を探したり、アンテナを工夫して受信感度を上げたりするのがすごく楽しかった。子供の頃はチンプンカンプンだった電波の仕組みとか同調、整流の原理とかもスイスイ理解できて、もっと知りたくなった。

そこで、その頃知り合った電気好きの小学生と、ドローン好きのtenguyashikiさんを誘って神山電子工作クラブを立ち上げた。一人でイチから勉強するより、仲間がいた方が続けられそうと思ったから。まだこの頃はこれを仕事にしようとは思っていなくて、週一で趣味としてちょこっとずつ勉強しようという程度の気楽なものだった。

神山で電子工作クラブ始めました – Mechanic Note

電子工作クラブの噂が風に乗って、参加希望者がどんどん集まってきた。結局集まったのは、電子工作どころかまだ理科が始まってない(理科は3年生から)ような子も含め、なにもわかってない小学生ばかりだった。新聞の取材の時に、僕はクラブで同好会ですということを強調したつもりだったのに、メンバーに小学生がいたことから、教室だと勘違いされてしまったようだ。

こうして僕は、毎週木曜日の放課後までに、なにか新しく教えられることを勉強したり、みんなで遊べるおもちゃを工作したりというタスクを背負い込むことになった。神山特産のスダチを使った果物電池や、AMトランスミッタに始まり、半年後にはビーコンとArduinoを使った宝探しゲームとか、Webからインタラクトできるクリスマスイルミネーションといった、ちょっとオーバーキルなおもちゃも作れるようになっていた。

その頃には仕事と称している活動の方にも電子工作が侵入しはじめて、こんな記事: mechanic.pilotz.jp とか、こんな記事: ympbyc.hatenablog.com を書いている。

新しいスキルは身についたものの、僕はここまで全く売上を上げていなくて、そのことで心を痛めていた。このままでは会社にとって僕は給料を払ってもなにも帰ってこない存在になるし、僕が会社に所属ているのは給料をくれるからというだけになってしまう。神山には、「会社は俺のスポンサーだ」と言い切っている心の強い人がいるんだけど、僕はそう割り切れるほど心が強くない。なんとかしなくちゃと内心ずっと焦っていた。この焦りはつい最近までずっと続いていたもので、これをどうやって解消したかはこれから書く。

2015年秋にはお姉さんと入籍する最高に幸せなイベントもあった。ここからもこんな調子で基本モヤモヤしながら要所要所にハッピーなイベントがあります。今モヤモヤ悩んでる人は気をつけてください。

2016年 春 メイカームーブメント

そんな悩みを抱えていたころ、2016年春に始まる神山メイカースペース(以下KMS)の運営メンバーにならないかと誘ってもらって、マスタークラスが開催された。2週間の期間中に、レーザーカッターと3Dプリンターの使い方を習って、こんな作品を作ったり、みんなでこんな作品を作った:

mechanic.pilotz.jp

そのころまで僕は、工作は嫌いではなかったけど加工技術は全然知らなくて、電子回路についても動いたら満足していた。簡単に使える工作機械を使うと、自分でもそんなに苦労せず見栄えのするものを作れるというのが衝撃的だった。

あと、仕事は全く関係なく、いろんなスキルを持った人が寄り集まって連日ワイワイ一緒に作業して作品を作り上げるという工程がめちゃくちゃ楽しかった。仕事がこんなふうだったらいいのに!マスタークラスは最近2回目が開催されて、その思いはさらに強くなっている。

これ以降僕の仕事や関わった活動には大抵、電子"工作"以外の工作の要素が入っている。例えばこれとか、 mechanic.pilotz.jp 最近だとこれとか: f:id:ympbyc:20170103185423j:plain f:id:ympbyc:20170112215825j:plain

5月には家を借りて物理的なサテライトオフィスができた。改修とか契約には苦労したけど、オープニングパーティーに町中からたくさんの人が集まってくれてすごく嬉しかった。 f:id:ympbyc:20160313200255j:plain

そんなこんなで、電子工作と、デジタルファブリケーションの2つのスキルをのんびり育てながら1日、1日と日は過ぎていって、僕が売上を全く上げていない日数も1日、1日と増えていった。

やっていることはすごく楽しくて好きで、やめたくないけど、会社の人と顔を合わせづらいのはつらかった。毎日仕事ってなんなんだろうと考えていて、もっとわかりやすい仕事をして心を軽くしたほうがいいのかなと悩んでいた。月一回全社ミーティングで東京に帰るのがすごく嫌だった。スッキリした今となっては、あんなに思い詰めることはなくて、悩みまくってる顔を見せるより、自信を持って、めっちゃ勉強してます!って顔をしてたほうが会社の人も絡みやすかっただろうなと思う。

わかりやすい仕事、わかりやすい仕事、と考えていて、製品を作って売るということを思いついたのが2106年の梅雨頃。それまでは売れるものを作る自信がなかったけど、だんだん上達してるしやってみなきゃわからないなと思えたのがその頃だった。製品のアイディアはあった。大したものじゃないし、ニッチだけど、自分が前から欲しかったもの。

この夏は id:phaendal さんや元同僚のMさんが、神山に遊びに来てくれて、いい気分転換になって、うまいことモチベートされた。

7月に妻の臨月が近づいて、彼女は大阪の実家に帰った。僕は8月中旬ごろから妻の実家にお世話になって、製品作りの予備実験をしていた。日本橋でんでんタウンにいつでも行けるのが最高だった。初めて表面実装部品に手が出せたのも、なんでもすぐ買いに行ける立地のおかげだったかもしれない。

回路検討と実験は予想より長くかかって、9月頭に赤ちゃんが生まれてからさらにふた月くらいかかった。子供が生まれたこともあって、有事には真っ先にリストラ対象になりそうな状態が続いているのが嫌で、モヤモヤがピークに達していた。

2016年 冬 スッキリ

予備実験と回路設計が終わってやっと、ほんとに作れそうな目処がついた気がして、こんなものを作って売りますっていう企画書めいたものを作って会社に送った。その途端いきなりフッと心が軽くなった。

それまでにも口頭では言っていたし、実験中の基板とかを見せてはいたけど、言いたいことを全部書類にして残したことで、「説明義務は果たしましたよ。反対がないなら続けますよ。」という主張ができた気がした。"気がした"というのがポイントで、それまでとそれからで会社の人たちの僕に対する心象が変わったかどうかは知らないし関係なくて、僕の心の整理がついたというだけ。

もっと早く企画書を作ったらよかったとも思うけど、自分の技術的に作れるのかよくわからない状態でブチあげるのは僕には向いていない。自分でハードルを上げて自分で潰れるのがオチだ。*1

製品開発は今の所、回路設計から基板デザイン、外装のデザイン、モデリング、成型まで全部一人でやっている。基板製造の部分だけはElecrowというサービス経由で工場に依頼している。なんで一人でやっているのかは、最近思いついた今年の目標に関連していて、次の記事で書くつもりだ。この目標ができたことでさらに心が軽くなった。

12月には平日昼間からデイジョブに全く関係のない活動に参加していてすら心に余裕があるほどまで回復していて、いい仕事ができた。これはAwa Odori 3000とKaraoke Toriiの話。

ympbyc.hatenablog.com

1月からはアメリカにいた頃にちょっぴり関わったClojureのライブラリ、core.typedの開発に参加している。今のところデイジョブとうまくバランスが取れていると思う。

さて、いよいよ始まりました2017年、今年はどんな年になるんでしょうか?

あ、これは次に書く記事への序章です。よろしく。

*1:これがindiegogoみたいなプロトタイプリクワイアメントがないクラウドファンディングプラットフォームが危険な理由だと思う